2022.03.13
(めろんNo.167記載)
幅広い事業を進める協会だが、外国人市民のもっとも切実、困難な悩みに取り組むという意味でも、また、そこから見えてくる地域社会の課題に協会が向き合っていくためにも、「外国人市民のための生活相談」はその基礎をなす事業と言ってよいだろう。前号ではその全体像をお伝えしたが、今回は継続した対応が必要となるケース相談についてお伝えする。
生活困窮や学校・教育などの相談
2020 年度に協会が対応した相談件数 934 件のうち、376 件は複数回の継続した対応を要した相談ケースだった。相談の案件としては 21 ケースで、1件あたりの対応回数は平均 18 回となっている。その内容をカテゴリーでみると、コロナの影響での失業や就職がなく
なった、収入が減ったことによる生活困窮を中心とした相談が7ケース。進学についての相談や学校生活でのトラブル、不登校など学校・教育に関する相談が7ケース。その他、在留資格や雇用、家族関係などに関する相談が寄せられている。
課題を整理し 資源をつなぐ
こうした相談への対応にあたっては協会の相談チームで、相談内容と状況の把握、相談者が持っている力やつながりの見立て、利用できる社会資源の検討などを行い、相談者に取りうる選択肢を提案しながら対応を進める。チームで対応しているのは、多角的に状況を検討し、また管理職も含め組織的に対応をするためだ。組織のなかに経験を蓄積するという面もある。相談者の意向を踏まえて他機関とともにこうしたプロセスを踏んでいくこともある。仕事探しや家探し、福祉制度の利用など「解決」のイメージが相談者のなかで具体的になることで、適切な社会的リソースにつながり、ひとまずの解決を迎えられる相談もある。
「解決」の見えない世界を 一緒に歩く
一方で、課題が複雑であったり、複数の関係者の間に葛藤があるような場合には、どうなることが「解決」なのか、ということそのものが悩ましい場合も多い。
例えば、子どもの学校の不登校の相談。そもそも「解決」とは何なのか。保護者の思いと子どもの思いは同じとは限らない。「学校にいく」ことが解決なのか?その子どもが自分らしく生きる、とはどういうことなのか?そもそも、この社会にはそれを受けいれる用意があるのか?子どものなかにある複雑な思い。保護者の悩みもつきない。日本の保護者でもそうだろう。ましてや言葉や文化の壁、情報の少なさのなかで、子どもも保護者も苦悩する。情報は提供したとして、それで「解決」するなら世話はない。もちろん、課題を整理し、資源をつなげる努力をするが、相談の主体は子どもであり、保護者である。相談員も一緒に悩むしかない。しかし、「一緒に悩む」ことこそが、あるいはそれこそが、必要な支援なのではないか。
学校でのいじめの相談もそうだ。協会は相談者との話し合いと了解の上で、必要な場合は学校や教育委員会に連絡する。子どもや保護者と学校との話し合いをサポートする。いじめた側が謝って一件落着、などという単純な話ではない。多くの場合、子どもたちは複雑な疎外感を抱えている。自分が理解されない、受け入れられない感覚。そう思わされるような小さな傷つきの体験。一見すると「いじめはみあたらない」という話になることもある。しかし、あるのだ。学校はどう取り組んでよいのか、途方に暮れることだろう。しかし、私たちにはそう訴える相談者のその気持ちが何よりの原点だ。それに寄り添い、じっくり時間をかけて一緒に世界を歩く。
生活に困窮して寄せられる相談。就労先を失うことは収入の喪失を意味するが、外国人市民にとってはそれだけではない。会社による偽装倒産や不当解雇など本人に非がない場合でも、日本にいるための在留資格を失うことにつながる。しかも、持っている就労ビザの種類によって職種が厳格に制限されるため、どこでも働けるわけではない。人手不足の時代でも、仕事探しは簡単ではない。
さらに現在の日本の制度では、在留資格によって受けられる福祉制度にも制約がある。例えば生活保護。「永住、定住等の在留資格を有する外国人については、国際道義上、人道上の観点から、予算措置として生活保護法を準用している」というのが日本政府の立場だ。しかし、就労ビザの人はその対象とはされていない。失業に心身の不調が重なっても生活保護に頼ることができない。その心的ストレスは計り知れない。
こうした相談にも相談者と面談を繰り返し、なんとか道を探す。答えがなくても、ともかく一緒に歩く。
「今日、寝る場所がない」という相談も、ときどき寄せられる。「誰でも無料で泊まれる場所」というものが、この社会にはほとんどない。DV を受けた人や虐待を受ける子どもを保護する公的施設はいくらかあるが、それでも「今日」となるといろいろな制約が付きまとうし、そもそも条件を満たさなければ利用できない。ときどきのことなので、協会でシェルターを維持するということも難しい。しかし、困っている相談者にとってはそんなことはどうでもよいのだ。なにしろ「今日、寝る場所がない」のだから。格安のネットカフェや簡易宿泊所、通っている教会、頼れる友人、知人の可能性など…なんとか当面をしのぐ術をひねり出す。その間に公的施設や福祉制度の利用など、今後の見通しについて他機関にも相談しながら探っていく。
一緒に歩く、というプロセスを私たちが大切にしているのは、ある意味では「それしかできない」ということであり、しかし「それはできる」ということでもある。そして孤立しがちな外国人市民への相談対応においては「それこそが大切」だと思うからなのだ。
コミュニティが力をあたえる コミュニティに力をあたえる
もう一つ、協会の相談事業にとって大切な一面がある。それは「ここにコミュニティがある」ということだ。
相談の場にいるとき、私たちは「相談員」と「相談者」として話をする。そこでは、相談者は「相談する人」としてふるまい、相談員は「サポートする人」としてふるまう。それ自体は自然なことだ。しかし、これは人間を全体性のある存在として考えたときには、ちょっと不健全な関係ではある。相談者はここでは「相談する人」だけれども、別のときには他の人の相談にのったり、人に頼られたり、人を笑顔にしたり…いろいろな面をもった存在だ。協会がコミュニティのなかにあることは、そのいろいろな面を発揮してもらいながら、相談する、されるとは異なる関係を結ぶこともできる可能性を生んでいる。
例えば、comm cafeはいろいろな人、いろいろな形の参加によって成り立っている。その中心には外国人市民が提供する家庭料理が
あり、そのまわりに様々な作業がある。お皿を洗ったり、料理を作ったり…作業をすると、座って話をしているときとは違った一面が見えてくることがある。一緒にご飯を食べながら、雑談をして、よもやま話をする。日本語はゆっくりでいい。ここではネイティブの人のほうが少数派なのだから。協会にとっては、こうした参加はありがたい。そして感謝されると、人は元気が出る。慣れてくると、意見がぶつかったり、行き違いがあったり…いろいろあるわけだが、それも含めて人間どうしのリアルなつながりだ。そして、しばらくかかわっていると雑談のなかで、いろいろな相談もできるようになる。家族のこと、子どものこと、老後のこと、などなど…。
人と接することが苦手な子どもや若者もいる。そんな子どもとは個別で話をする。そうしていると、実は得意なこと、やってみたいことがあることがわかる。何に困っているのかが少しずつ語られる。その子どもが持つ力や困りごとに、この協会のコミュニティに関わる様々な人
や機会がつながると、小さな集まりが生まれて、会話がはじまる。新しいエネルギーが生まれる。「事業」なんて大袈裟なものじゃない。小さなつながり。細々とした取り組み。でも、なかなか味わいのあるものが、実はいろいろ続いていて、このコミュニティに彩を与えている。
こうしたコミュニティのベースにあるのは、やはり多様性だ。多言語、多文化、多世代…な人たちがいる、というだけではない、それぞれが自分の何かを表現し、いくらかのぶつかりあいをしながら、ゆるくつながっている。その生きた多様性が協会の相談事業を支えていて、相談事業によってこのコミュニティが豊かになっている。
めざす社会のエッセンス
相談件数が増加するなかで、職員の研修や相談員を支える仕組みづくり、記録の取り方など、協会の事業としてのバージョンアップも必要となっている。こうしたことに取り組みながらも、協会がこの地域のなかで培ってきた相談事業のスタイルを大切にしたい。相談者のエンパワメント、多様性を包摂したコミュニティづくり、寄り添い型のケース対応。そこにはいつも、私たちがつくろうとしている社会と事業のエッセンスが詰まっているのである。(河合)